初夏の日差しは暑がりな人にとっては地獄の開始を意味するものである。一歩引いて客観的に見れば若葉生い茂る季節で雨の月も通りかかる、初めの夏、と書いて初夏はとても風流な季節なのだけれど、あたしの目の前にいる人はそんな風情を感じる暇も無く仕事と暑さの挟み撃ちで死にそうになっていた。当たり前だ。このじめじめした中を障子を締め切って作業する人なんて聞いた事が無いぞ。とりあえずいち早く気が付いたあたしが障子を勢いよくオープンし、氷がこれでもかー! と詰め込まれた麦茶を差し出したおかげで、今は大分具合が良くなっている。扇風機は外に出払っているので、あたしは金魚をあしらったうちわで自分と彼を扇いだ。ぱたぱたとうちわの気抜けする音がだだっ広い和室に響いて、この人ここで一人で寝泊りしてるんだよなあと思う。彼はまた麦茶をぐいっと飲んで、はーっと溜息をついて、紙をがしがし掻きながら万年筆をへし折りそうなくらい手に力を込めて目の前の紙っぺらを睨んだ。大変だイライラしてるよこの人。初夏でじめじめした蒸し暑さで若葉が生い茂って外の舗装されたアスファルトは太陽光を吸収・反射して余計にこの町の温度を上げてなこの状況で、暑がりなあなたがこのまんまじゃ危ないって。真夏に黙って部屋の中で過ごしてぶっ倒れた事があるのだ、この人は。彼はますます怒ったようにぱっと見黒だけれどよく見れば灰青の瞳をぎゅっと細めて、紙とにらめっこしていた。紙も笑わずあなたも笑わず、けっして決着が付く事は無いにらめっこだ。
そうだ、あるじゃん。あたしにできるイライラ改善の秘策。あたしは素早く立ち上がって、彼の机の上に置いてある麦茶のコップを奪い取った。おい! と彼が声を上げるけれど、こんなに汗を掻いたコップじゃあ冷たくないでしょう。あたしはそのまま部屋を後にする。
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「はい、麦茶のおかわりです。無くなったらすぐに言ってくださいね」
「ん、悪ぃ・・・・・・、おい」
あたしは振り返って「どうしました?」と聞いた。彼は少し躊躇するようにこちらを見て手を上げたけれど、納得したみたいに降ろした。そのまま机の方に向き戻る。
それでもあたしにはちゃんと聞こえたのだ。だからあたしは微笑んで、うちわを動かす。
「ぬるくならない内にお召し上がりくださいね、せっかく冷蔵庫で冷やしたんだから」
「ああ」
うわあ。あたしはたった今、これといった証拠は無いけれど、世界で一番幸せな人のような気がするのだ。あたしの目の前に胡坐をかいてどっかりと座り込み万年筆を有り得ない握力で握り紙と無言の果し合いをしているあなたは暑がりだから苦しいかもしれないけれど、ほんのり夏のにおいを感じさせるこの水分を多く含んだ空気のにおいを胸いっぱいに吸い込みながらうちわであなたの汗で濡れた後頭部に風を送るときのこの感じといったら、大変だ。幸せすぎる。あたし本当にあなたに会えてよかったと思ってるよ。いつも無茶苦茶に厳しくて怖くて怒ってばかりだけれど、こうしてあたしをお部屋においてくれている。他の人の前じゃ絶対に隙を見せないのに、あたしと、他のとても信頼した人の前でだけ緊張を解いて、時には眠ったりするあなたがあたしは好きすぎる。本当はあたしの今日のおやつになる予定だったのだけれど、あたなになら渡してもどこも惜しくないのだ。
それもこれも全部、あなたが小声で、
「・・・・・・ありがとう」と、言ってくれたからで。
「あたしの大好きな苺大福、味わって食べてくださいね」
「ばぁか」
そこでばかはないですよ! と激昂したら、彼は久し振りの笑顔を見せて、
「美味しく頂く」
と、あたしの頭を撫でて言うものだから、あたしもそれ以上は何も言えないのだ。
なんとなく悔しくて、あたしはうちわを自分に向けて力強く扇いだ。強い風があたしと彼を同時に包み込んで、包み込まれたあたしたちはくすりと笑みを零してしまうのだ。
溜まりに溜まった仕事は終わる気配を見せないし、さっきからこの万年筆の出は悪いし、何より夏が迫ってきた、この感触が不快で不快でたまらない。俺はいらいらと机を指で叩きながら、もう片方の手で麦茶が入ったコップを掴んで冷たい液体を喉に流し込んだ。これは、今俺の後ろで適当にうちわを扇いでいるあいつが持ってきたもので、時折こちらに流れてくる風が涼しい。何で夏なんかあるんだろ。元々寒さには圧倒的に頑丈なタイプなので冬は気にも留めないが夏は暑くって参る。じめじめした空気を入れたくなくて障子を締め切ったら軽く呼吸が苦しくなり、やべえと思った瞬間ナイスタイミングであいつが麦茶と共にこの部屋の現れたのだ。そして今に至る。あいつはしばらくぼーっとうちわで遊んでいたが、突然勢い良く立ち上がると、俺の命綱、麦茶を奪っていった。おい! と声をかけても、気にも留めずに部屋を出て行くあいつを見て、何故か寂しさを覚えたのは俺の気のせいだと思いたい。(そうじゃないと俺のプライドが許さない)
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「はい、麦茶のおかわりです。無くなったらすぐに言ってくださいね」
「ん、悪ぃ・・・・・・、おい」
あいつは振り返って、どうしました? と俺に問いかけた。その笑みは、言わなくてもいい、と言っているようで、なんとなく気が引けた俺はぼそっと感謝の言葉を呟いた。
ありがとうと、聞こえるかどうか分からないほどの小さな声で。
すると、後ろからふわりと笑い声がした。
「ぬるくならない内にお召し上がりくださいね、せっかく冷蔵庫で冷やしたんだから」
「ああ」
触った苺大福はひやりと冷たくて、心地よかった。そういえば、と俺は思い出す。こいつは俺が暑がりで夏が苦手な事も知っているし存外猫舌で熱いものが飲めないという事も知っているし、俺のさまざまなものをこいつは知っている。緑茶より麦茶が好きだとか、煙草だってあっちのよりこのシリーズの方がだとか、こいつ、すげえ。
俺はまたコップになみなみと注がれた麦茶を飲んだ。冷たい。大福に手を伸ばそうとすると、こいつは少し俯き加減になった。
「・・・・・・あたしの大好きな苺大福、味わって食べてくださいね」
「ばぁか」
そこでばかはないですよ! と怒るこいつの頭を撫でて、「美味しく頂く」と俺は言った。するとこいつは真っ赤になって、それから勢いよくうちわで俺たちを扇いだ。夏のうざったい暑さなんて吹き飛ばすような風が俺の前髪を飛ばす。こいつがこちらを見上げてにこりと笑ったので、俺もそれに笑い返した。
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