その建物の中は薄暗く、埃に塗れていた。よっつの足音が広々とした空間に響く。その内のふたつは今目の前を歩く男のものだ。男は建物と同じく、淡白で突き放すようなどこか冷たい印象を受けた。男の細い背中を見ながら歩き続けた。どこまでもどこまでもその広い廊下は続いているように思えた。しかし男のふたつの足はひとつのドアの前で止まった。というより、この長い廊下を歩いて最初のドアだった。男はドアを開けて中に入ったので後に続いた。その部屋は建物のどこよりも綺麗だったが、悪く言えば何も無かった。
男は真っ白な壁に細い指で触れた。男の体は骨と皮だけと言うのが相応しかった。
君は世界中の学者が寄ってたかって頭を捻っても解けなかった概念を知っているかと問われたので、知らないと答えた。それは死だよと、先程質問した男は言った。いまだかつて誰も解けていない、最大の謎なのだと。
それから男は、君には解けるかねと聞いた。今すぐには不可能でしょうと答えた。いつかは解けるのかねと男が尋ねたので、できるでしょうと答えた。
そうだろう、と男は顔を綻ばせた。痩せこけて肉の無い顔だった。今の君ほど死に近い存在は居ないのだから。そうでしょうねと答えた。感情が欠け、感覚が麻痺した脳の奥を優しい笑みが横切った。拡散する血のにおいも。辛いかねと聞かれたので辛いですと答えた。男は嬉しそうな顔をした。なぜそのような表情をしたのかは到底理解できないししようとも思わない。
何も無い部屋だった。部屋の中央に立つのは気後れがしたので、部屋の端に移った。男は
細い指で壁に寄りかかり自分の無に等しい体重を支えながら、ずっとこちらを見つめていた。あなたはここで何をしているのですかと聞いてみた。考えているのだよと男は答えた。考える事だけの為に生きる。感情などに影響されず、絶えずひとつの事を考え続ける。真っ直ぐな生き方は美しいだろうと男は言った。あまりそうは思わなかった。色々な思いに囚われながらも、命は美しいなと神に感謝し、逆に失った魂の為にも涙を流す。それが生きるという事だと思った。醜くても汚くても生にしがみつくのが生き物だと思った目の前の男はそれをしなかった。それは男が生き物という生き方を止めた事を意味していた。
解けたかねと問われたので解けましたと答えた。死とは何かねと尋ねられたので死とは人ですと答えた。男は少し面白そうな顔で続きを促した。人の思いの数だけ死はある。人が認識しなければ、死という概念など、存在しないのだ。男は嬉しそうに、でも哀しそうに頷いた。正直な話、男がそんな表情ができる事に驚いた。
「さあ、もういいよ。空へ戻って幸せに暮らしてくれ、今は亡き愛しい人よ」男は言った。
世界中の学者にも解けなかった概念の名を
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