あともう1話ですね。
この話、当初はもうちょっと違う流れになる予定だったんですけどね。
Refrain 3 渡り鳥の一族の名
「空。具合はどうかな?」
病室。真っ白なカーテンが、柔らかな風に踊らされている。
「ああ、先生。全く問題ありません」
女は嬉しそうに微笑んだ。随分と、最近は表情が変わる。
カルテを叩きながら、散歩は程々にね、と呟いた。
「先生。窓の外を、ご覧になりましたか?」
「なに?」
窓。外といえば、今日も家から来たので見たはずだ。普段から外の景色を眺める癖が付いているのだから、見逃したものなんて無い、と思う。まして、ベッドに座る女が知っていて、こちらが知らないことなど。
女はまた、幸せそうな笑みを浮かべる。
「桜です。とても綺麗ですよ?」
ああ、と一人納得する。家からここまでの道に、桜の木は無い。しかし、この病室、一階の隅の部屋では、病院の敷地内に建てられたただ一本の桜の木が見えることを思い出した。
「私、ひとつだけ思い出したことがあります」
「・・・なに?」
聞き返せば、女は目を細めて、カーテンを引き、窓の外の桜を見つめた。
「私、ずっと昔に・・・あの桜の木の下にいた木がします。真っ白な建物のすぐ隣にある、たった一本だけの桜の木。その下で、誰かに会って、また会おうね、と・・・」
***
今日は珍しい。背景が見えない。少女の、やけに赤い靴だけしか、この眼が情報として処理しなかった。
『あなたは、だれ?』
教えたくない。知らない人に、教えちゃいけない。そう言われて育ってきたんだ。
特に、君みたいな、得体の知れないものと関わりを持ってはいけないんだよ。
『わたしは、まよった。とんでいたのに、かたほうこわれて、おちたの』
迷う? 飛ぶ? 片方壊れて、落ちる?
残念ながら、意味がさっぱり分からない。
『“あれ”。いいなまえでしょ』
“あれ”とは何だ? 少女の声が、静かに下がる。
『“ワタリドリ”ノ、イチゾクノナ』
意識が消える直前、青が見えた。その下に、白も。
***
「先生? 先生!」
女の声で目覚めた。最近、こんなのばっかりだ。格好悪い。
「迷う。飛んでいたのに、片方壊れて、落ちた。“あれ”。渡り鳥の一族の名?」
分からない単語が、自然に口を付いて溢れ出した。女は驚いたように手を止める。
「・・・どうしたの、空」
「先生。今何と?」
今言った言葉をもう一度繰り返すと、女は最後のものをもう一回聞かせろと言った。
「渡り鳥の一族の名」
「“あれ”、渡り鳥の・・・」
女が呟いた瞬間、女の翠の目が虚ろな光を宿した。
「渡り鳥・・・壊れた、無くした。落ちた。翼? 飛んでいたのに!」
女はいきなり怒鳴った。怒鳴ると言うより、泣き叫ぶと言った方が正しいような。
「空?」
女を呼ぶ乾いた声は、爽やかな春の陽気には不自然なほどに浮いていた。女ははっとしたように頭を上げ、驚きの表情を浮かべてこちらを見た。
「先生・・・私、何を・・・・・・?」
「・・・・・・・・・ううん、空は何もしていないよ」
首を傾げた女の細い、茶の混じった髪が肩から少し流れ落ちた。
***
嫌な予感がしたのだ。全てにおいて。
『えへへー、終わっちゃった。そうだよね、渡り鳥は飛び立たなくちゃいけないもの』
少女はにっこりと微笑んだ。後ろから夕日が照っていて、彼女の姿は光り輝いて見えた。
『でも、いつか、渡り鳥の旅は終わるから。その時は必ず、帰ってくるからね』
渡り鳥はいつまでも渡り続けるんだよ。そう、遺伝子に刻み込まれているんだ。
『そうね。だから、あたしは遺伝子を覆す。きっと、きっとよ』
無謀な。遺伝子を奪ったら、君には何も残らないのに。
***
女はぼんやり空を眺めて、そのままぴたりと止まったままで、髪だけが、窓から流れ込んでくる風を受けてそよいでいた。
「私の記憶は、どこにあるんでしょうか、先生?」
風は、部屋の中に、桜の花弁を舞わせた。
「さあね。あの木の枝に引っかかっていればいいのに」
「それは無理な話ですよ」
女はくすくすと笑う。寝た時邪魔にならないように、横でゆったりと結ばれた髪が、女が少しだけ体を揺らして笑う度に、ちょっとだけ、揺れる。
「だってあんな高いところ、私もあなたも、誰も取りに行けない」
「・・・見くびってもらっては困るから言うけれど、こう見えて運動神経は良いんだ」
「あら。先生は細身なのにねぇ」
こうして女は笑うのだが、この空気、何故か非常に、違和感がある。女の話し方、物腰、「先生」という言葉の全てに、違和感を覚える。なぜ、だ?
「・・・・・・私も、あそこまで飛べたら良いのに」
女はぽつりと呟いた。
「無くした記憶が、何故か、とてもいとおしいんです。って、当たり前ですよね、それまでの私の記憶なんだから。でも・・・・・・私、記憶の中に先生の姿があるような気がしてならないんです。この桜の木も、先生のちょっとえばった話し方も、全部、どこかで見た、聞いた、感じた。そんな気が――」
羽ばたきの音が聞こえて、女は顔を上げる。大きな鳥――名前は分からない――が、あの桜の木に止まっていた。女は微笑み、わたりどり、と言葉を零した。その瞬間、目の前がぐっと暗くなって、下にぽっかりと大きな穴が開いているような気がした。そのまま落ちていく。失くした記憶の、中枢に。
直前、女の顔が見えた。その顔はいつもよりずっと幼く、まるで10年くらい昔の、
***
どこにも行かないでくれ。ねえ、どこに行くんだよ。行くなよ!
『無理。あたしは行かなくちゃ。渡り鳥の遺伝子、だよ』
君は、遺伝子を覆すんだろう? 君が昨日そう言っていたじゃないか。
『いつかは。でも、今すぐには不可能なんだ。もっともっと時が経って、力も強くなったら、いつか』
それまで、待てって言うのか。信じられない。止めてくれよ、頼むから。
『大丈夫、あたしの記憶は自動的に消去されるの。その代わり、別の人――あの、白いワンピースの子――が、あたしの身代わりをしてくれる』
それでどうにかなったと思ったの。忘れる訳無いのに。おい、聞けよ、
『記憶って、この世で最も不確かなもののひとつだよ。でも、いちばんだいじ。あたしは多分、“遺伝子を覆す”時に記憶を失う。お互い様。でも信じてみない? あたしの記憶が戻った時、あなたの記憶も、元に戻る』
そんないい加減な事をどうやって信じろと?
『ダイジョウブ。アタシハイカナキャ。ワタリドリガ、マッテル』
羽ばたきの音が次第に迫ってくる。
その途端、全てがわかった。
To be continued...PR